戦争の過ちを二度と繰り返さないために

「古河市9条の会」ニュース  2021.9

2021年08月27日 21:40

還らなかった教え子

 
 今から八十年前の我が家の玄関、今でもしっかり覚えています。
朝七時、家中が並んで父の出勤を見送った。
「お父ちゃん、今日は兵隊さんに行くの」と三歳の妹が言う。
「行かないよ」
「ああよかった・・・」と。
 毎日のように大きな声で言って と想っていた。行かれると困ることを、幼心にも察していたのだ。
 
 その頃役場の近くに住んでいたので、毎日の様に出征する人を見送りに行った。
みんなの前で、
「ありがとうございます。しっかり努めて帰ってきます」とお辞儀すると、係の人が、
「バカッ、帰ってくる気か」と怒鳴った。
のちに、ああ、死んでこい、ということだったのだと思った。
 
 父は旧制中学の教員でした。学校から帰って来ると、私を連れて講堂へ行った。
そこには、戦死した教え子の写真が飾られていた。
「あー、勝君も一郎君も死んじゃったかぁ」と泣きそうな顔で写真を眺めていた。まだ二十歳にもならない少年兵を悲しい顔でじっと見ていた。
 
 二度とこんな様子にあいたくない、何十年たっても忘れられない想い出です。
 新潟県六日町に住んでいた当時の女の子の思い出です。
                                                                             (原町在住・」八十八歳)

 
 

敗戦忌・八月十五日はどう詠われたか

 
 1945年(昭和二十年)八月十五日、日本はポツダム宣言を受け入れ降伏しました。
この日のことを歌人はどう詠んでいるでしょうか。

 聖断はくだりたまいてかしこくも畏くもあるか涙しながる  斎藤茂吉
 
 何事も我等は耐へむ日の本にすめらみことの在すかぎりは  川田 順
 
 
 生きた神とされてきた天皇の声を初めて聞いた恐れと驚き、忠誠の気持ちが詠われています。
それでは昭和天皇はどう詠っているでしょうか。
 
 爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならんとも  裕 仁

 これは昭和天皇が平和主義者であったかのように偽った歌です。
日本がポツダム宣言で降伏を求められのは1945年7月26日でした。昭和天皇は天皇制を守ること、当時の言葉で「国体維持」にこだわり、「もう一度戦果を上げてからでないと・・・」と、受け入れなかったのです。
この時降伏していれば、東京大空襲、広島・長崎への原爆投下、沖縄地上戦の悲劇はなかったのです。

 おそかりし終戦のみことのりわれ読めば焦土の上の被爆者は哭く  秋月辰一郎
 
最後に、戦争に反対して獄中にあった、歌人渡辺順三の歌を上げます。

 敗戦を俺は喜ぶ
 この日から
 圧制の鎖が断ち切られたのだ。


侵略戦争にも喜びの声を上げ、平和と民主主義ののための闘いに向かう決意を詠っています。

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