戦争の過ちを二度と繰り返さないために

「9条の会さかい」発信 2025.8 No.100

2025年09月03日 22:24

あの戦争を語り継ぐために

 敗戦から80年が経過した。戦後生まれが人口の9割近くを占め、戦争の記憶が薄れるなか、多様な形で戦争を語り継ぐことが重要である。その意義からも当会報は微力ながら努力したいし、会員読者にも同じ期待をしたい。そのためには「何故、誰が、どの様な戦争をしたのか、そして悲惨さ、理不尽さ」など、歴史に埋もれる前の戦争の諸相に触れ、語り継ぐことである。

 8月終戦特集でNHKがドラマ「昭和16年夏の敗戦」(原作 日本の近代 猪瀬直樹著作集8・小学館)を放映した。対米戦を想定して集められた官僚・軍部・産業各界の若きエリート達、彼らは日本必敗を正確に予測した。それにも拘わらず、その4か月後に日本は米国との戦争に突入した。

 昭和12年に始まった日中戦争が泥沼化するなかで日本への批判は厳しくなる。対日禁輸政策を強める米国との緊張も高まり、ついには日本軍の中国大陸及び仏領インドシナからの撤兵と日独伊三国同盟の破棄が要求された。一方で統制不能なまでに暴走する軍部との板挟みになった昭和天皇はじめ近衛文麿や東条英機ら閣僚が対米戦か回避かで苦悩し揺れ動いた(「日本の近代」第6巻  戦争・占領・講和 五百旗頭真・中央公論社)。

 画家光山茂先生(境町)著「風化の果てに」には、銃後の家族体験が綴られている。昭和16年1月、父親に届いたたった一枚の「赤紙」が残された家族に労苦を強いた。7反歩の畑を祖母、母と兄弟二人で耕しながら、さつま芋の麦飯とすいとんで食いつないだ。ラバウルで敗戦を迎えた父親はオーストラリア軍の下で捕虜となり、強制労働の日々を送った。収容所では捕虜たちをトラックで運び連れ去っては帰還しないことが続出した。毎晩のように銃声が聞こえた。処刑である。その死のセレモニーは父親所属小隊の直前で終了した。復員した父親は不条理な戦争の体験を語った。

 かつては戦争体験者がいなくなる将来の日本を危惧した政治家が多くがいた。まさに現状を言い当てている。あの戦争を語り継ぐことが大切である。

 

 

「平和国家」の変貌

 戦後の日本は平和憲法の下で再出発した。それから80年が経過した今、この国は大きく変貌して、平和国家の衣を脱ぎ捨てようとしている。

 1950年に勃発した朝鮮戦争の下で創設された警察予備隊、これが前身になって54年に自衛隊が発足した。だが憲法9条との違憲論争が起こった。時の政府は「自衛隊は必要最小限の実力組織」と「専守防衛」を基本方針に定めて、自衛隊の活動範囲に歯止めをかけた。ところが90年に湾岸戦争が勃発して、自衛隊活動は転換を迫られることになる。米国は自衛隊派遣を要請したが日本は憲法上の制約を盾にしてこれを渋った。だが国際社会の反応は冷たく、翌91年には自衛隊の海外派遣に踏み切った。海上自衛隊の掃海部隊をペルシャ湾岸に派遣したことが最初の海外活動となった。これが契機となり、本格的な海外活動へのレールが敷かれてしまった。その後、自衛隊の活動範囲はなし崩し的に拡大され、その一方で憲法との本質的な乖離が常態化していった。 

 第2次安倍政権になって、従来政府が踏襲してきた憲法解釈を閣議決定によって変更し、2015年に安保関連法が国会で強行に成立された。これによって集団的自衛権が容認され、国外に出て軍事同盟国と共同の作戦活動が可能になった。岸田政権に至っては安保三文書を改訂したことで、抑止力強化の名のもとに、他国領域をミサイル攻撃する敵基地攻撃能力の保有や殺傷兵器を輸出するまでの国になってしまった。そして今年3月には陸海空自衛隊を一元管理する「統合作戦司令部」が発足して、米軍指揮下でその一翼を担うことになった。また、「日米豪印戦略対話(クワッド)」の枠組みにおいて、インド太平洋地域における軍事態勢が構築されつつある。その背景には中国の海洋進出への対抗があるが、これによって自衛隊の活動範囲がさらに拡大されることになる。

 この国の戦後の変遷を概観したが、一方で近隣との緊張を解く外交の影が極めて薄いことに気付く。均衡ある国の姿に戻るべき時ではないだろうか

 

 

八月や戦を語る生身魂(いきみたま)    昌利    

 

八月の(みたま)はさこそ語るらむ命生ましめ人愛しめよ  蒼果

 

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