戦争の過ちを二度と繰り返さないために

「9条の会さかい」発信 2025.9 No.101

2025年10月03日 19:00

ペリリュー島の戦い 茨城の郷土部隊

 東京新聞(9月13日14日付)茨城面には「近代茨城の肖像『歩兵第2連隊』」が連載された。太平洋戦争中、南方の小島ペリリュー島にて茨城出征兵士で構成された「歩兵第2連隊」(中川州男隊長陸軍大佐)が米軍と繰り広げた死闘の特集が組まれた。記事からは、連隊の勝機なき戦闘と司令部からの冷酷な命令がこの戦闘の凄惨な実相として浮かび上がる。あえてこの記事を取り上げた。

 昭和19年、日本の戦況は悪化の一途をたどる。マリアナ沖海戦では空母機動隊が壊滅、サイパン島も陥落して制空制海権を失い、「絶対国防圏」は既に崩壊していた。この戦況の中、ペリリュー島は2本の滑走路を備えた軍事的要衝だった。連隊にはペリリュー島守備隊の中心として、島の絶対死守が下命された。それが悲劇の始まりとなった。

 孤立無援となったこの島にて、守備隊は圧倒的兵力の米軍を迎え撃つ。艦船団が島を包囲して地形が変わるほどの艦砲射撃を加えた。上陸した米軍に肉弾戦は成す術もない展開となり、守備隊は全滅に近い状況に陥った。米軍も飛行場は占領したものの兵力の損失は大きかった。新規に投入された後続部隊はしらみ潰しの攻撃を仕掛けて守備隊を追い詰めた。中川隊長は司令部に打電をした。「水もなく、塩と粉味噌をなめながら幾十日戦ってきた。最悪の場合、3隊に分かれてペリリュー飛行場に切り込みをかける覚悟である」と玉砕の許可を要請、「持久戦を続けよ」冷酷な指示が返ってきた。死よりも苦しい戦闘を強いられた末に、中川隊長は再び打電した。「状況特に切迫し、陣地確保は困難である。現兵力の健在者は約50名。兵器は小銃のみ、弾薬は20発、手榴弾と食料は20日(4日前)に尽きた。本日以降、組織的戦闘を打ち切り、健在者によるゲリラ戦へ移行する」は悲惨を極める。

 ペリリュー島守備隊の戦死者1万22人(内海和子氏資料:境町28人、青木正彦氏資料:五霞町15人)、戦傷者446人、数字がこの戦闘の歪さを物語る。玉砕の他に兵士らに報いる道はなかったのか、この戦はそれを後世に問いかけている。

 

80年談話の核心

 戦後80年談話は石破総理の進退問題が浮上して以降、不透明のままである。石破さんならではの談話表明を期待したい。そのような時期に、東京新聞から文化人や市民活動家などが語る「私の80年談話」が連載された。とりわけ河野洋平氏(元自民党総裁他要職歴任)の談話(9月5日付)は出色の感があり、要約して紹介する。

 戦後の日本は新憲法を制定した。この憲法は権力者をしばり、権力者にこういう方向に国をリードしていけと求めている。これが国民、政治家、国際社会への約束事だと指摘する。

 その約束の一つが憲法前分に謳われている「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」(平和的生存権)の履行である。この80年間、戦後日本はその約束事を果たそうとしてきたのかをきちんと考えることだ。世界中のさまざまな飢えや貧困、内紛や戦争で苦しめられている人々に等しく支援の手を差し伸べているか、それを問い直すべきだと河野氏は語る。

 憲法制定から10年後に日本は国連加盟を果たした。その時の外務大臣重光葵による国連演説を河野氏は取り上げる。「わが国の今日の政治、経済、文化の実質は過去1世紀にわたる欧米およびアジア両文明の産物であって、日本はある意味において東西のかけ橋となりうる」。これは国際社会仲間入りへのもう一つの約束事である。しかし、「米国への偏りが大きく、中国はじめアジアがおざなりにされてこなかったのか」と河野氏は問いかける。さらに、「今、最大のテーマが対中国であり、中国敵視する米国の政策を無批判に受け入れてきたことで、中国が危機の対象になっている」との河野氏の指摘は核心を衝いている。

 遺憾ながら日本の現状は、日米軍事同盟一体化と集団安保体制がもたらす軍事的緊張、そして国内では排外主義の台頭と、弱者への不寛容さが社会現象になっている。河野氏80年談話が指摘することへの再認識と広がりが必要だ。

 

 

一羽発つ蜂起の如く稲雀    昌利    

80年今も戦後と拘りつ夜半の虫音の鼓舞に聴き入る   蒼果

 

 

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