戦争の過ちを二度と繰り返さないために

「9条の会さかい」発信 2019.3 No.24

2019年03月18日 23:30

「あの日のオルガン」試写会レポ

 この映画が東京新聞記事(2019.2.19)なった直後、茨城映画センタ―での試写会の機会に恵まれた。
 太平洋戦争末期、2歳~6歳の園児53人の命を守るために、東京から埼玉蓮田市に集団疎開を決行した女性保育士たち11人の実話が映画化された。

 その保育士たちは、戦後も教え子たちに悲惨な体験を語り続けた。しかし、時が経つにつれて、「教え子らが社会の中核を担う日本が再び戦争を起こしかねない状況になってしまった」との危機感を持っていたときに、この映画化が進められていた。多摩市のライタ―久保つぎこさんがを取材し、82年に出版した「君たちは忘れない」が基になる。企画制作者は「虐待やいじめ、貧困・・・。子供たちの命が軽んじられている今だからこそ」とこの映画の意義を語る。

 疎開先で戦火から園児たちを必死で守る保育士たちの意思は気高い。だが、農家から野菜をもらって喰いつなぐ園児たち。その子たちが戦時下で何一つ生産しない「消費班」だとして排除しようする一部の住民。現代のLGBT非生産論的差別も同根である。

 度重なる空襲警報に疲れた保育士が「気が付いたらずっと戦争と一緒、15年も一緒だった。戦争がどこまでも追いかけて来る」と絶叫する。満州事変に始まり、日中戦争、太平洋戦争へと拡大し続けた泥沼の戦争に嫌悪する国民感情がむき出しの言葉に。悲惨さに泣きながらオルガンを弾き〈この道はいつか来た道〉と歌う保育士。今の日本が再び戦争する国に向かいつつあることへの隠喩のように聴こえる。
この映画の視点を次の角度で眺め直した。いつのまにか戦争出来る国へと踏み出した日本への警鐘と、個人の尊厳が少しずつ蝕まれていく世情に呼応するかのように幼い命さえ守れない大人たちへの警告のようだ。私たちの地域での上映実現に努力したい。

 

 

 

 悲しみに感応する少女の今

 幕を閉じようとする「平成」への論評が多い。天皇皇后の足跡をたどるのもそれだ。高山文彦の「ふたり」(講談社文庫)には、皇后美智子と水俣病告発作家石牟礼道子が胎児性水俣病患者を通して、二人の「みちこ」の魂の交流が書かれている。本には皇后の国際児童図書評議会世界大会での基調講演(1998.9)の文章「橋をかける 子供時代の読書の思い出」が紹介されている。少女期の読書体験を通じて、世界平和を訴えたものとある。

 日本の戦況が悪化した頃は小学校四年。母が美智子と弟を連れての疎開、終戦までに三回疎開先変えるなかで、たまに訪れる父がもって来てくれる本への思いが語られる。とりわけ、ケストナ―の「絶望」とソログ―ブの「身体検査」には、貧しさにすべなき子どもの悲しみの深さに、少女美智子は心を揺さぶられる。高山はそれを「どうしてこのように少女は『悲しみ』に感応するのだろうか」とため息をつく。

 日本が高度成長へと歩み始めた時期だ。高山の記述は『美智子は皇室に嫁いでから、新しい時代の家族や家庭の華やかなありようを国民に披露し、皇太子明仁とともに戦後社会に誕生した2DKの団地群を訪問するなどして、それまでの農村漁村型の大家族共同体にかわる核家族時代の到来を全国に宣伝する重要な役割を果たした。大量生産、大量消費、それを可能する農業の工業化、都市への一極集中・・・。その代償として発生したのが水俣病をはじめとする公害であり、人の尊厳よりも企業利益を最優先する、血も涙もない殺伐とした沙漠のような都市群であった』と結婚をもてはやした世相を客観視する。

 浩宮の妃となった雅子の祖父は水俣病原因企業の経営者の一人であった。皇后の実妹の嫁ぎ先が新潟の第二水俣病原因企業の経営者一族であった。それらが現在の皇室に暗い影を落としている。
高山の記述は続き『自分がいままでやってきたことは間違っていたのではないか、という思いが、皇后にも天皇にもあるに違いない。・・・現天皇と皇后のこれまでの道行は、昭和の時代を生きたそうした死者たちへの鎮魂と懺悔と慰霊の旅であるという点で、昭和という時代に対する批評性を帯びる・・』と。

 昭和の戦争と公害、その被害者たちの悲しみの深さに向き合う人としてのありようを体現している。

 

  

ふたり 皇后美智子と石牟礼道子 (講談社文庫) 文庫 – 2018/11/15

 

サイト内検索

お問い合わせ先

9条の会さかい(事務局) 090-8729-3008